大手町1丁目、オフィスビルが林立する東京のビジネス中枢の一角にそれはある。現在もひっきりなしに開発が進むそのエリアにおいてまるで取り残されたように、ともすると場違いな佇まいで鎮座し続けている。将門塚、通称:将門の首塚ーー古代・平安時代にここ東国で朝廷に反旗を翻し猛威を振るった豪族・平将門(たいらのまさかど)を祀った塚である。
最強の怨霊・将門
「将門が怨霊として1000年の眠りから目覚める時、帝都は巨大な墓場と化しましょう」ーーこれは将門を悪の化身としてフィーチャーした荒俣宏原作の『帝都物語』の一説だが、この作品もまた将門のパブリックイメージを「最強の怨霊」足らしめるのに一役買っただろう。
尤も、当の東京では実際に将門の祟りについては人々の知るところであった。例えば、塚を潰して建物を立てようものならば工事中に事故死する者がいたり、建てられた大蔵省でも変死者が続出するといった有様だ。こんな具合だから都市伝説界隈でも将門は日本最強クラスの怨霊と目されるようになった。
なぜこの場所に首塚があるのか
此処は将門終焉の地、ではない。首が晒された場所、でもない。討たれたのは下総国であり晒されたのは京なのだ。ではここは一体なんの場所なのかというと、「首が飛んできて落ちた場所」だ。さすがに最強の怨霊ともなると新幹線や航空機で移動するような距離とて余裕で飛んでくるのだ。スケールが違う。ちなみにキリストが蘇ったのも、将門の首が晒されてから飛んだのも、いずれも3日目の出来事である。
故郷の下総まで飛ぶ途中で狙ったのか偶然かこの地に落ちた首は、やはり祟りで疫病や天変地異などを招き住民を悩ませたという。その為手厚く供養され石塔が築かれたという。やがて将門は神田明神の御祭神として祀られることになった。怨霊だったはずがいつのまにか神になっている。御霊信仰とは言ったものの鎮めるために神にしたというよりは実際にご利益が凄いそうだ。かの家康も関ヶ原を戦う前に将門に祈ったというのだからその効果は推して知るべし。
将門塚を訪ねる
千代田区千代田1−1は皇居。では千代田区大手町1丁目にあるのはなーんだ、というクイズが成立しそうだ。正解は言わずもがな、将門塚。
本籍地を皇居に指定する人が少なからずいるという話を聞いたことがあるが、間違って大手町にしない様に。些細な粗相で祟られたくないだろ。
思い込みや暗示の一種だろうか、空気が違う。言ってみれば霊場のそれだ。
鳥居もないのに足を踏み入れる前に自然と一礼してしまう。
工事を計画したGHQに断念させ、庁舎を建てた大蔵省を退かせた首塚である。今ではキングオブ霞ヶ関であり他の省庁と一線を画す財務省(旧大蔵省)よりも、ましてやアメリカよりも強い存在なんて、これの他にあるだろうか。私は寡聞にして知らない。
石塔婆の周りにはいつ来てみても常に花が絶えない。
蛙の置物がこれでもかというほどある。
かえる=帰る、の語呂合わせから戻りたい人、戻したい人、帰りたい人、帰したい人etc…限定的なようで結構汎用的なお願いに使えそうである。ーー今の記憶を保ったままティーンに帰りた、あ、嘘嘘、今の嘘です将門公。そんな下らないお願いは慎みましょう皆さん。
将門・怨霊と恐れられる割に愛されすぎ問題
将門塚の敷地内にはひとつのベンチがある。私はそこに座ってしばらくこの空間に滞在してみた。
ひっきりなしに参拝者が訪れる。ずっと眺めていると、近くの大企業の役員然とした貫禄のある紳士から若い女性まで、老若男女、本当に様々な人々から将門は愛されているんだなと思えた。本当に最強の怨霊ならば、そんなに多くの人を集めるだろうか。「触らぬ神に祟りなし」なのに、わざわざ彼ら彼女らが来る理由はなんだろうか。
私自身実は、ここに来るのはもう何度目か覚えていない。都市伝説的コンテキストで中二的にカッコイイとか思って好きなのでは断じてない。知れば知るほど、人間・平将門を敬う気持ちが沸き起こってくるのである。
平将門とは果たして本当に悪なのか
日本において豪族・武人が天皇の座を奪うために挙兵した例は後にも先にも例がない。中国の歴史においては武力を用いて自らが皇帝に成り代わる「易姓革命」が常だが(だから秦や漢や唐などと国号が変わる)、日本でそれが起こった試しは無かった。皇位継承を巡って両陣営が争ったとかいうことはまああったが。しかし日本の王朝は神話部分をさっ引いたとしても万世一系であり日本はあくまでずっと日本なのである。余談だが易姓革命とは天によって中華を収める者の姓が決定されることだ。だから日本の天皇には姓が無いのだ。一説には易姓革命を逃れるために姓をつけなかったともされているが、そもそも姓は皇帝より賜るものだったのだから皇帝自身に姓が無いのは当然である。
武士はその最高職である征夷大将軍を目指した。どんなに自分が偉くなってもそこまで。権力を手にしても権威(天皇)を簒奪することはなかったのだ。なぜならその権力こそが権威を後ろ盾にしたものであったのだから。
ということは、挙兵した将門は日本の歴史上稀に見る常軌を逸した謀反人だったのであろうか。答えは否だ。
将門は実は、桓武天皇の血を引いている。正当に。今の世に例えるならば臣籍降下した男系男子のようなものだ。これの意味するところはとても重要だ。将門が日本を手中にしたとしても、王朝は変わらず皇統が保存されているのだから。
板東という当時の中央から離れた関東の地で、彼は革命を起こした。
時は平安時代、京では藤原氏が華やかな生活を送っている時にここ東国の民は中央から派遣された国司に過酷な税を強いられていた。将門は国司を悉く駆逐し自らの手で新しい世の中を作ろうとしていたのだ。志半ばで倒れた彼に同情する東国の民は多かったという。
将門塚保存会が建てた将門塚の説明看板には以下の様なことが書いてあった。
『関東地方に今も将門を祀る神社が多いのは、将門が朝敵とされながらも実は郷土の勇士であったことを証明している。弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気質となって社会的に極めて大きい影響を与えている』と。
怨霊?とんでもない。人間平将門は紛れもなく東国の英雄だ。
終わりに
もし将門が倒れなかったら東国に理想国家を築けていただろうか。或いは東京はもっと早く首都になっていただろうか。
しかし、前述の通り家康が関ヶ原で勝ったのは偉大なる祟り神将門を畏れその霊力に祈ったお蔭だったとするのならば、此処東京に首都を築いた功績の一端を彼に与えたとしても多少は許されるだろう。
歴史にifは無いが、そこには大いなる畏怖があった、ということだな。なんて具合にまとめてみる。…お後が宜しいようで。
首塚から見上げた空は、なぜかひときわ綺麗に見えたんだ。頑張ります、また来ますねと独りごちてその場を後にした。